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「キプロス再統合」交渉が決裂 より複雑化する“南と北”の分断

THE PAGE - 7月17日(月) 14時0分

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(THE PAGE)

 スイスのモンペルランで行われていた、地中海に浮かぶキプロス島をめぐる交渉の決裂が7月7日、発表されました。キプロスは1974年から南北に分断しており、それを再び統一するための交渉が今年1月から行われてきましたが、合意が成立しなかったのです。

 キプロス島は9251平方キロメートルで、四国のほぼ半分。しかし、地政学的な重要性もあり、周辺のトルコやギリシャ、EUなどを巻き込むキプロス問題は、パレスチナ問題などとともに、世界で最も解決が難しい問題の一つといえます。日本であまり取り上げられないキプロス問題の背景を整理し、これからを展望します。(国際政治学者・六辻彰二)

1960年にイギリスから独立

 キプロス島の歴史は古く、ヒッタイト、エジプト、ギリシャなど多くの古代文明により入れ替わり立ち代わり、支配されました。その後も、この地はローマ帝国、東ローマ帝国、十字軍、オスマン帝国と、次々に「主人」が変わる歴史をたどり、最終的に1878年にイギリスがオスマン帝国から「租借」。第一次世界大戦後には、イギリスの本格的な植民地支配の下に置かれました。

 しかし第二次世界大戦後、イギリスの衰退に伴い、アジア、アフリカ各地で独立運動が高まる中、キプロスも1960年に独立を達成したのです。

 ところが独立以前から、キプロスではトルコ系イスラム教徒とギリシャ系キリスト教徒の対立が絶えませんでした。植民地時代、イギリスは他の植民地と同様、現地人を民族ごとに分断して統治しました。そのため、例えば学校はギリシャ系とトルコ系で別となり、それぞれが「ギリシャ人」「トルコ人」としての意識を強めることとなったのです。イギリスは「分割して統治する」ことで現地人が結束して抵抗することを抑制していたのですが、その結果として独立段階で既に双方の敵対心は高まり、イギリスにも手が付けられなくなっていたのです。

 特に、人口の約8割を占める多数派のギリシャ系の中には、ギリシャへの編入を求め、民兵組織を結成する強硬派も登場。これに対してトルコ系も武装し、両派の対立はエスカレートしました。そのため独立にあたって、イギリス、ギリシャ、トルコが「統一キプロス」の「保障国(後見役)」となることで決着。ギリシャ系に大統領職が、トルコ系に副大統領職が、それぞれ割り当てられたことは、両派の共存を目指すものでした。

強硬派のギリシャ系兵士がクーデター

 ところが、独立後も両派の対立は収まらず、1964年には内戦に発展。この際、アメリカが介入したほか、国連安保理が国連キプロス平和維持部隊(UNFICYP)を派遣したことで、対立は一旦収まりました。

 しかし、1974年には軍によるクーデターが発生し、マカリオス大統領(当時)が失脚。これにより、キプロス情勢はさらに混迷の度を深めることになりました。

 独立段階から大統領の座にあったマカリオス氏は、当初ギリシャへの編入を求めていました。しかし、それがキプロスを不安定化させることから、内戦後はトルコ系住民やトルコとの平和共存に方針転換。さらに、それまでの親欧米的な外交方針も、中立路線に転換していました。

 クーデターは、これに不満を抱いた強硬派のギ
 

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