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大悪党か? 奇傑か?評価分かれる曲折激しい富豪への道 平沼専蔵(上)

THE PAGE - 8月10日(金) 15時40分

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(THE PAGE)

 明治期の大富豪として知られる平沼専蔵ほど、その人柄の評価が真っ二つに分かれる人物はほかにはいないかもしれません。没落した華族から金品を巻き上げるような悪党ぶりを見せつけたかと思うと、米の凶作時に外国米を安く買い叩いて、貧しい人々に安価で提供する義賊ような一面もあったと言われています。埼玉県飯能から江戸に奉公に出て成り上がり、巨富を築き上げた「迷宮」のような投資家の快進撃を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

大悪党か? 奇傑か? 「迷宮」と称された男

 平沼専蔵の評価は没後100年たっても毀誉褒貶が相半ばする。平沼が亡くなる2年前、雑誌『実業界』は平沼を俎上に乗せるが、平沼という存在は“迷宮だ″とし、こう述べている。

 「平沼は一個の迷宮である。ある人は大悪党と呼び、またある人は、傑物とする。一面においては、冷酷残忍、ほとんど人にして人に非ざるがごとく、おとしめられるかと思えば、他面においては、一代の奇傑なり、意思の強固なこと、だれが、彼の右に出るか、と賞賛する」

 当時、平沼は75歳の高齢に達していたが、その評価は「大悪党」「極悪非道の人非人」から「傑物」「奇傑」までさまざまだった。

 「金貸し」という仕事がら、専蔵の品定めを一層難しくしている。没落華族に金を貸しては、カタに取った家宝の珍品を巻き上げたので“華族倒し″の異名もあった。半面で、平沼のおかげで窮地を脱した人も数多い。三井閥の重鎮朝吹英二などにとっては、平沼は命の恩人である。

 朝吹が横浜で生糸相場を張っていたころ、巨損を被り、進退極まった。海に飛び込んでしまおうか、と悩みに悩んでいたとき、平沼を訪ね、懇請した。

 「借りる時の地蔵顔、済(な)す時の閻魔顔」に泣かされてきた平沼は相手が朝吹だからといって簡単にはOKしない。半日がかりで問答を繰り返し、「じゃあ、お貸ししましょう」と引き受けてくれた。平沼の緊急融資で立ち直るきっかけをつかんだ朝吹は、以来財界で栄進の道をひた走るが、終生年賀に横浜の平沼邸を訪れたという。

若気の至りか? 専蔵の青春の苦い思い出

 平沼が20歳のとき、江戸に出て奉公したのが日本橋の渡辺治右衛門の店だった。ここで渡辺からたたき込まれた。

 「渡辺は極端なる拝金宗で、青年時代より平沼はその家に寄寓し、親しくその手段法寸を目撃し、口ずから黄金万能を鼓吹(こすい)されたからたまらない。先天的にそれらの素質を享受しつつありし彼は、一から十までこの呼吸を飲み込み、むしろ藍より出でて藍より青きものとなった」(『実業界』)

 主人をしのぐ拝金宗徒となった専蔵はまじめ一筋に仕事に励んでいたが、ある時、品川宿の遊女につぎ込み、店の金に手を付け、400両という大穴をあけてしまう。遊女と心中しようと妓楼に乗り込むが、女は間男と遁走していた。なんともお気の毒な青春の一コマだが、これを機に専蔵は心機一転、横浜に向かう。時は安政6年(1859)年、横浜開港で一騎当千のつわ者が全国から横浜に集中する中にコキュの悲哀をかみしめる専蔵の姿があった。

酒のみならず、タバコも断ち商売に専念 石炭業から始まり金融業まで すさまじい快進撃

 海産物問屋明石屋に奉公する。酒色はもとよりタバコまで断って克己精励、20両たくわえたところで石炭業に乗り出す。平沼のことを「ハマの石炭屋」と呼ぶのは、この辺りから頭角を現すからだ。アメリカの南北戦争(1861-1865年)で綿花が暴騰するとみると、綿糸を買い占めて巨利を収める。慶応元年には羅紗、唐桟(綿織物)の輸入も始め、明治11(1878)年には生糸の大手売込み商(輸出商)、芝清こと芝屋清五郎商店を買収し、平沼の快進撃は続く。

 これより先、明治元(1867)年米の凶作で外国米が急増すると、外国商館の足元をみて値をたたき、3000トンという大量の米を買い占め、市価よりぐんと安く、貧しい人たちに売る義侠心を発揮する。すると買い占めた外国米の値が一転急上昇し、大もうけ、一石二鳥をつかむ。

 土地売買や株式投資も敢行する。機をみれば、すかさず資金を投じ、自分の不得手な分野でも尻込みしない。金融業に本格的に参入する一方、さまざまな事業会社に投資、重役の肩書は数え切れないほどである。

 明治32(1897)年、横浜株式米穀取引所が設立されると、平沼は初代頭取に就任する。

 このころには京浜地区長者番付でいつも上位陣に平沼の名が登場するようになる。

 明治35(1902)年、平沼は衆議院議員選挙に立候補し当選、立憲政友会に所属する。歴代国会議員名鑑によると、平沼の経歴は横浜株式米穀取引所のほか、横浜銀行、金叶銀行、横浜洋糸織物引取商組合、横浜綿糸織物引取商組合の各頭取をやったことが記されている。 =敬称略

【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 

■平沼専蔵(1836-1913)の横顔

 天保7(1836)年武蔵国高麗郡飯能村(現在の埼玉県飯能市)出身。20歳のとき、江戸に出て日本橋の渡辺治右衛門方に奉公する。主人の渡辺は大富豪だが、吝嗇漢(りんしょくかん)としても知られる。その渡辺のもとで商人としての修業を積む。のち横浜の海産物商明石屋に奉公、石炭、織物、米穀などに手を広げ、巨利を重ね、土地、株式にも手を伸ばす。明治32(1902)年横浜株式米穀取引所が設立されると初代頭取に就任。同35(1902)年衆議院議員に就任。実子はあったが、名古屋の豪商瀧兵右衛門の次男、延治郎を養子に迎える。専蔵にとって自慢の養子だったが、同40(1907)年のパニック襲来で破綻、自殺。

 

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